トム・ヤマダ(101)
第二次世界大戦でアメリカ軍日系二世部隊第100大隊所属の通訳技師として活躍。終戦後の東京裁判の直前に東条英機氏の通訳として横浜日吉にあった米軍病院で、自殺未遂後の東条氏に付き添う。彼は後にマウイの農業検査官として働き、定年後グレー・ラインという観光バス会社で85歳まで現役を続けた。現在は時々お客様をお連れし楽しいひと時を過ごす仲。

 

パウロ・キヨシ・フジシロ(85)
風の谷のオーナー、カマカケハウというハワイアン・ネームを持つ。ウクメハメ渓谷を治めていたハワイアン・チーフ、ケコハウピオの血筋を引く。
パウロさんのお爺さんはジンザブロウ・フジシロといい、1868年にハワイ王国総領事ユージン・ヴァン・リードが徳川幕府との間で調印した移民制度に志願(?)した140名の日本人の一人。明治維新による新政府が発足後、横浜出向許可が得られず、やむなく無許可で出港しホノルルに着く。その後マウイのオロワル・プランテーションで働き、ケコハウピオの娘と結婚し風の谷の住人となり、パウロさんのお父さんが生まれた。

ジョン・ケオネ・スミス(4?)
キパフルに広い土地を持つハワイアンの子息で、乗馬とハワイアン文化継承に情熱を注ぐ。2015年にハレアカラ・ナショナル・パークの再構成のため、乗馬ビジネスをやむなく休業させられている。現在はワイルクにマナプア・ベーカリー『テイカバウ』をオープン。乗馬会社(マウイ・オン・ホースバック)を再開後はハワイアン文化を味わう弊社のツアーを共に創っていく仲間。

アピラ・コロラド(??)
民俗学の博士でハーバードを含むいくつかの高学歴をもつ。
2009年に実施したアラスカ冒険の際、現地の先住民の方々を紹介してくださり、2010年はキルギスタンでのパネル・スピーカーを私に託してくれた方。毎年1月に行われる先住民文化のミーティングでもパネル・スピーカーとしてお手伝いさせて頂いている。

 

ケオラ・タダシ・セクエイラ(70)
1975年3月8日にハワイアン文化を探るためのボヤージでタヒチへ航海した『ホクレア号』のマストの上の守り神を掘った職人。ラハイナにある彼の手作りの家(パカラ)で度々AWAの儀式で共に祈る。
アピラ博士のご主人。

 

レイオフ・ライダー(??)
ククイプカ・ヘイアウを再建したハワイアン・ヒーラー&祈祷師。月一のヘイアウ清掃で共に汗を流す。

 

 

 

カピオホオカラニ・ナオネ(??)
ハナに住むカフ(ハワイアン文化全般の精神的リーダー)。パウロさんの友人であり、ケオネの師匠でもある。ハワイアン・メディソンをよく知る先生でもある。現在はそれ程面識はないが、将来は弟子にして頂こうと願っている。

 

コトコ・カワムラ(89)
京都生まれで、皇室の教師として働く父と共に東京へ移住。第二次世界大戦後GHQでマッカーサー元帥の通訳として働く。現在はマウイに住む娘さんを頼ってキヘイに住み。トムさんと誕生日を共に祝い合う仲間。

 

 

 

スティーブン・コスマ(72)
ハナのビーナス・プール近くに住む、フィリピン系ハワイアン。冠婚葬祭があると一緒に秘密のがけ下に行ってオピヒ(アワビの味に似たハワイの一枚貝)をとったり、弊社のオーバーナイト・ツアーで庭にテントを張らせて頂いたり、誰も行かないブラックサンド・ビーチへアクセスするためのロープを貸してくれたり、とてもよくして頂いている。

トラコ・アリネ(100) (1914.1.7〜2014..5.16) 旧姓 山田刀良子
大正3年1月7日に誕生した彼女と同じ年に建立された馬哇(マウイ)神社の宮司。広島県尾道市神石町からの移民の子でオアフ島ワイパフ生まれ。、子供時分独りで船に乗せられ帰国するが、カリフォルニアの親戚を頼って渡米。後に写真お見合いでマウイ在住の有根政雄氏と結婚する。政雄氏は神官見習いとしてマウイ神社に奉仕し、後に神官となる。第二次世界大戦中は日本のスパイと疑われ、マウイ島の日系人でただ一人ハイク収容所へ抑留される。38年間神官を務め、その道半ばの昭和47年2月14日に急逝。それからトラコさんが引き継ぐ形となり2014年5月に他界されるまで、そのお役目を全うする。毎年お正月の初詣の際、ご祈祷して頂いていたが、2015年からはどうなることか。

 

友人と呼ばせていただくのは甚だおこがましいのですが、こころより
敬服し愛すべき方たちをご紹介します。

 






 



 

*友人の年齢は2015年現在